マイノリティとは少数者のことだ。マイノリティというと、すぐにその権利の保護、という話がでてくるが、先日書いたように、少数者と弱者とを混同するのはよろしくない。それでも少数者は弱者になる場合が多いから、結果的には保護の対象として考えることはあるだろう。
ただ、多数決という「民主的手段」におけるマイノリティについては別の意味がありそうだ。それは多数派、つまりマジョリティの意見に服従せざるを得ない人々という意味だ。99対1なら後者は前者に従うとしても仕方ないだろう。嫌なら大多数が左に行くと言っている時に一人だけ右に行けばよい。ただ、無理矢理に左につれて行かれるとしたら、それはどうなのだろう、という疑問がわく。さらに、99対1ならまだしも、51対49のような場合だったらどうなのだろう。その時も49の「マイノリティ」は51の『マジョリティ」にしたがうべきなのだろうか。
現実の選挙ではそうしたことが起きている。これは果たして「民主的」という言葉が当初もっていたであろうニュアンスを、あるいはそうでないとしても、すくなくとも「適切な」という言い方を使うなら適切な集団行動と言えるのだろうか。
そもそも自分の意見や考えのなかにも多様な要因が含まれていて、そこでも1票という投票権を行使するとなると、多数決のようなことが起きているだろう。その時、自分の内部におけるマイノリティは「つぶして」しまうことになってもいいのだろうか。後々すっきりした気持ちになれるだろうか。
これは政治の話から社会心理の話になり、さらに個人心理の話に至ってくる人類永遠といっていいほどの問題だ。
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