あおり運転をした何某のような人間
非難はやったことについてなされ、その人格の歪みは結果的に罰に処せられる形で評価されるが、人格の歪みそのものが非難されることはない。それは人権侵害ということになるのだろうか。しかし、こういう人間はどこにいても何か問題を引き起こす可能性がある。もし軍隊にでもいたら冷酷な上官として部下を非人間的に扱い、敵は虫けらのように殺すだろう。たぶんISあたりでは、そういう人格の持ち主が高く評価されることにもなるだろう。昔の特高あたりにはそうした人間が多かったのではないか。
人格がゆがんでいるというだけで法に触れる事件を起こさない限りは野放しというのは適正な対応とはいえない。歪んだ人間をどうするか、となると、必ず起きるのが人権問題。しかし人格こそが根源であるのであれば、その歪みに対してだけでも予防的措置をとれないものか。少なくとも他人に対して権威を持つ立場、警察とか自衛隊とか軍隊とか、あるいは職場の上長とか家主とか店長とか議員とか、などなどには就かせない、という消極的な形での予防的措置くらいはすべきだろう。人格が歪んでいるということで隔離したり幽閉したりするわけにはいかないから、せめてそのあたりで対応すべきだろう。
そして、その歪みの判定を個人的な思い込みとしないための客観性をそなえた判定基準も必要。いまの性格検査ではだめ。今の心理学研究者のびくびくした姿勢ではだめ。もっと社会に対して主導的な姿勢をもたねばだめ。
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